ダーク ピアニスト
〜練習曲12 漁火〜

Part 3 / 3


 二週間が過ぎた。が、病室にギルフォートは現れなかった。
「ねえ、どうしてギルは来てくれないの?」
ルビーが訊いた。
「やっぱり僕のこと怒ってるんだ! きっとすごく怒って、僕を嫌いになっちゃったんだ!」
ルビーが叫ぶ。
「そうじゃないよ、坊や。彼は今、いろいろと忙しいんだ」
ジェラードが宥める。
「警察と話しをしたり、事件の後始末に追われていたりしてね。その処理が終わったら、すぐに来てくれるさ」
「ほんと?」
「ああ。それに、ほら、そのウサギはギルフォートが置いていってくれたんだろう?」
「わかんない。目が覚めたら、ここにあったの。だから、僕、可愛がってあげたんだよ」
ルビーはぬいぐるみを抱いて言った。

「ここに来たばかりの頃は眠っている時の方が多かったからね。きっと彼が置いて行ったんだろう。ギルフォートはおまえの好みをよく知っているだろうからね」
ルビーが頷く。
「それに、明日には坊やが行きたがっていた海へ連れて行ってあげるよ」
「本当に? それじゃ、ここを出られるの?」
「ああ。明日の午後、ここを出発して夜にはオーシャンビューのホテルに泊まるんだ。素敵だろう?」
「うん。でも……。その時にはギルも一緒に来てくれる?」
「もちろんさ。だから、今夜はいい子にしておやすみ」
「はい。わかりました。それじゃあ、おやすみなさい、ジェラード」
「ああ。おやすみ、坊や。良い夢を……」
そう言うとジェラードは病室を出た。

「ウサギさん……」
ルビーは起き上がるとベッドの脇にある机の引き出しから金貨を出した。少し歪んで黒ずんだあの金貨だ。
それをウサギのエプロンのポケットに入れて言った。
「アルにもらった金貨だよ。少し焦げちゃったけど、女王陛下からいただいた特別な金貨なんだって……。これが僕の命を救ってくれたの。だから、これを君のお腹に入れておくよ。そうすればきっと君の赤ちゃんを守ってくれるよ。そしたら、君は赤ちゃんをたくさん産んで、ウサギの王国作るんだ。だってウサギさんはたくさん赤ちゃん作れるってモーリーが言ってたもの。だからね」
ルビーはぬいぐるみを抱くと、ゆりかごのようにやさしく身体を揺すった。

――おやすみ、坊や。良い夢を……

「良い夢?」
(どうしたら、それを見ることができるんだろう)
「何故、人は眠らなきゃいけないの?」
ウサギに訊いた。
「ずっと起きていられたらいいのに……。そうしたら夢なんか見なくて済む。そうしたら……」

――眠れないのなら薬をやろう。医者の薬なんかよりもずっと良く効く薬だ。おまえの痛みも苦しみも何もかもを取り去ってくれるとっておきの薬だよ

ジェラードが置いて行った薬……。それを口に含むとコップの中の水を見つめた。
(これを飲んだらきっと……僕は水色の夢の中……)
(アインツ ツバイ、ドライ……。君のためだけに泣ける……。泣いて、泣いて、僕の涙で世界中を水色に染めてしまうんだ。そうしたら、もう悲しくないもの。世界中が全部水色になったら、僕はもう一度笑えるようになる。だから、僕を無理に眠らせないで……お願いだから、僕を……)
ウサギを抱いたまま、彼は天井を見つめた。


 そして、翌日。ジェラードは約束通り、彼を海へ連れて行ってくれた。そこは、リゾートホテルの18階。窓から一面の海が見渡せる部屋だった。が、到着したのは夜。暗い水面しか見えなかった。それでも、ルビーは部屋の窓からそれを見て喜んだ。
「明日の朝には青い海が見えるよ」
ジェラードが言った。
「うん。でも、夜の海もいいよ。ここに来るまでの間、ずっと波の音を聞いていたんだ。それに、潮の香りもしたし……」
空とも海ともつかない暗い窓を見詰めてルビーは言った。

「さあ、少し休んだ方がいい。ルームサービスで何か頼むかい?」
「ううん。いいよ。僕、ずっと海を見ていたい……」
「ハハハ。坊や、そんなに張り付いていなくても海は逃げて行きはしないよ」
ジェラードが笑う。
「うん、そうだね。でも……」
ルビーはボスの後方に控えていた男の方へ歩いて行く。そして、男の手を取って言った。
「ギルが何処にも行かないように見張ってるんだ」
銀髪の男は何も言わなかった。ただ、その手に冷たい指輪の感触だけを感じていた。

「おやおや、2週間も放っとかれて、坊やはよほど寂しかったようだね」
ジェラードがからかうように言った。
「うん。とっても寂しかった」
と、笑って男の顔を見上げた。その男が撃った弾丸のせいで自分が死に掛けたことを覚えていないかのような、屈託のない笑顔で……。

「私は人と合う約束がある。おまえ達は少し休むといい。ギルフォートも部屋でくつろいだらどうだ?」
ジェラードの言葉にルビーが不満を唱えた。
「いやだよ。僕、もっとギルと一緒にいたい」
「駄々をこねるんじゃないよ。おまえは車の中でずっと眠っていたが、彼はずっと運転していたんだ。少しは休ませてやりなさい」
ジェラードに言われてもルビーは首を横に振った。
「いやだ!」
「困った子だね」
ジェラードがため息をつく。
「構いません。おれがここに残ります」
ギルフォートが言った。
「そうか。それじゃあ、頼むよ」
そう言うとジェラードは部屋を出て行った。

ルビーは持って来たぬいぐるみを抱えてご機嫌な唄を口ずさみながら部屋の中を歩き回った。
「もう身体の方はいいのか?」
男が訊いた。
「うん。いいよ。でも、少し待ってね。薬を飲んでしまうから……」
そう言うとルビーは水差しからコップに水を注いだ。それから、ポケットから出した錠剤の数を数える。
「アインツ ツバイ ドライ……全部で三つ」
が、その手から錠剤の一つを取り上げてギルフォートが言った。

「この薬、医者からもらった薬じゃないだろう」
「うん。ジェラードにもらったの。東洋の薬草を煎じて作ったお薬なんだって……。とってもよく効くんだ。頭が痛いのも胸のここが痛いのもすぐに治っちゃうんだよ。すごいでしょう? ほんとはとっても高くて貴重なお薬なんだけど、僕がいい子にしてるから特別にくれるって……。だから、返して」
男の手からそれを取るとルビーは錠剤を飲み込んだ。それから、また小鳥のように歌い出す。

――このままではルビーが壊れてしまうわ

その背に羽は付いていないのだ。
「薬に頼るのはよせ」
男が言った。
「何故?」
「それは、おまえの心を救ってくれる物ではないからだ」
「それじゃあ、これは?」
ルビーがウサギのぬいぐるみを突き出した。
「これはあなたが置いていったの?」
「ああ……」
男が頷く。
「アハ。ジェラードの言った通りだ。ギルは僕の好みをよく知ってるんだね」
彼はそのぬいぐるみを逆さまにしたり、撫でまわしたりしながら言った。

「僕のウサギさん、みんな死んじゃったの。でもね、一つ残ったウサギさんでいいことをしたの。モーリーに貸してあげたんだよ。そしたら彼、とっても喜んでくれたんだ。だから、そのウサギさんはモーリーにあげたの。だって、僕にはあなたがくれたこのウサギさんが来てくれたから……。それに……」
そう言い掛けてふと、窓の方を振り返った彼の視点が止まる。それから、急いで窓の方へ駆けて行くと硝子に頬を付けて言った。

「あれは何?」
暗い海の向こうに青白い光が幾つも灯っている。幻想的で美しい光だった。
「あれは……漁火だ」
男が答える。
「漁火?」
「あの光で魚を誘き寄せて捕獲するんだ」
「きれい……」
ルビーがうっとりとそれを見つめる。
「エレーゼも一緒に来れたらよかったのにね」
思わずそう言って振り向く。が、男の顔を見てルビーは俯き、再び青い灯を見つめた。

「ねえ、人は死ぬと何処に行くんだと思う?」
「さあ……な」
「天国ってほんとにあるのかな?」
「わからない」
男が答える。ルビーは窓を背にして男と向かい合った。
「……ギルにもわからないことってあるんだ」
と、不思議そうな顔をする。白いモザイク。壁に埋め込まれた銅板の植物。近代的なホテルの部屋には似合わない梟の置物が机の上からじっとこちらを見つめている。

「この部屋はいいね。窓には何も遮る物がなくて……。ずっと遠くまで見えるし……。ねえ、今夜は窓を開けて眠ってもいい?」
「いや。夜風は身体によくない。それに、その窓は開かない」
「どうして?」
「ここは18階だ。むやみに開いては危険だろう」
「18階? それってどれくらい高いの?」
「ざっと80メートル以上はあるだろう」
「落ちたら死ぬ?」
「ああ……。普通の人間なら多分死ぬ」
「普通の? 僕は普通の人間じゃないから死なないと思ってる?」
「……」
漁火はゆっくりと移動していた。

「それじゃあ、僕と賭けをしようよ」
そう言うとルビーは窓枠に腰掛けてじっと男を見つめた。
「賭け?」
「そうだよ。もしもここから落ちて、僕が死ななかったらあなたの勝ち。でも、もしも僕が死んだら僕の勝ちだ」
「馬鹿なことを……」
「馬鹿? そうかもしれないね。みんなが僕のことを馬鹿だって言うもの。でもね、僕だってちゃんと考えてることだってあるんだよ。傷付いていることだってあるんだ。だから……」

――お兄ちゃんはぼくが何も知らないと思ってたの?
(ミヒャエル……)

ルビーはそっとウサギを足元に置いた。

――本当は知っていたんだ。何もかも……。おじさんもおばさんも、ぼくが邪魔だったって……。ぼくがいなければ、お兄ちゃん独りならば、おじさんの家に連れて行ってもらえて、そこで幸せになれたって……
――ミヒャエル、何を言っているんだ。そんなことはない。おまえのことが邪魔だなんて……。それに、お兄ちゃんはおじさんの家に行ったからって幸せじゃない。おまえと一緒にいられた方がずっと幸せなんだ。本当だよ
――うそだ! お兄ちゃんは無理してる。いつだって無理をして、それで……
――無理じゃない……

「僕ははじめから要らない子だったんだ」
「そんなことは……ない」
「僕のせいでみんな不幸になる」
「そんなことは……」
「いない方がいいんだ。僕なんか……」
「ルビー……」

「だから、賭けをしようよ」
それは一枚の絵のように、窓枠にはまっていた。背景には暗い海。ぽつぽつと浮かぶ漁火と、海に溶け込んだ黒い服の人形。彼は僅かに首を傾けて微笑する。瞬間。背景に光の亀裂が閃いた。くすくすと笑う声が潮騒のように響く。

「やめろ!」

男が叫んだ。が、次の瞬間。窓枠ごと外れた硝子が吹き飛び、そこにいた筈の人形はそのまま背中から落下して行った。
「ルビー……!」
伸ばした手が空を掴む。強い逆風が男の身体を部屋の中へと押し戻す。悲鳴のような雷鳴……。

――お兄ちゃん、見て! 鳥がいっぱい……

掴み損ねた微笑が闇に消える……。
「ルビー……」
男は急いで部屋の電話の所へ行き、受話器を取った。吹きこむ風が冷たい。時折混じる雨粒が固い氷のように男の身体を打ちつけた。が、呼び出し音が途切れる前に男は無言で受話器を置いた。
「もう……遅い」
床には風で飛ばされたウサギのぬいぐるみが転がっている。男は開いたままの窓と自分の手のひらを見た。伸ばしても届かなかった想い……。伝わらなかった感情が心の内で吠え立てる。

――ミヒャエルがまた、ぼくのプラモを壊したんだ
――弟はまだ小さいんだから我慢しなさい
――でも、あれはコンクールに出そうと僕が1カ月も掛けて一生懸命作った物だったのに……
――我慢しなさい

両親は仕事で忙しく、弟は身体の弱い子供だった。

――パパ、見て! ぼくの絵。金賞をもらったんだよ
――今は忙しいんだ、あとでな
――ママ、ぼくの絵……
――ミヒャエルがまた熱を出したの。病院へ連れて行かないとだからあとでね

いつもそうだった。伝わらない想いのまま、テーブルに置かれた絵は破られてゴミ箱の中……。

――ミヒェルがぼくの絵を破いて……!
――悪気はなかったんだ。許してやりなさい
――でも……
――お兄ちゃんでしょう?

いつも大切な物を壊してばかりいた。そして、いつも彼のあとを付いて来て邪魔ばかりした。転んですり傷ができれば、お兄ちゃんが付いていたのにとなじられ、弟のハンディのせいでいじめられたと訴えれば、弟なのだから庇ってあげるのが兄の役目だと説教された。

――弟なんかいらない! ミヒャエルなんかいなくなってしまえばいいんだ! 消えてしまえばいい。いつも迷惑ばかり掛けて、ぼくの大切な物を奪ってばかりの弟なんか……。消えちゃえ!

心の羅針盤を失って闇の中を彷徨った。

――ギルはぼくが嫌いなの?

悲しそうな瞳……。ミヒャエルの、ルビーの、それとも自分自身の……。

――ぼく、知ってたんだ。ぼくのせいでお兄ちゃんがいつも辛い目に合ってるって……

空一面を覆う影……。

――お兄ちゃん、見て! 鳥がいっぱい!

「ミヒャエル!」

――知ってたんだ。それで、いつもお兄ちゃんばかりが我慢して、無理をしてるんだって……。ごめんね。もう我慢しなくていいんだよ。ぼくはもういなくなったから……

――僕は消えたから……

「違う。違うんだ。おれはいつも……」

――ぼくね、お兄ちゃんが好きだよ。世界の中で一番……大好き!

――僕はギルが好き! だから、ずっとあなたの側にいる

二人はあまりにも似過ぎていた。そして、懸け離れていた。

――ぼくね、もう一度走れるようになりたいの。お兄ちゃんと一緒に……
――走れるさ。いつかきっとお兄ちゃんが治してやる。医者になって必ず治してやるから……。そしたら、また二人で走ろう。あの空の下を……
――本当?
――もちろんさ
――大好きだよ、お兄ちゃん!
――おれもだよミヒャエル、おまえのことが大好きだ。家も何もなくたっていい。おまえさえ一緒にいてくれたらそれでいいんだ
――本当?
――本当さ。そして、いつかおまえもこの施設から出て一緒に暮らそう。そして、もう一度、二人で幸せを手に入れるんだ

「幸せを……」

――幸せになりましょうね、みんなで……

水色の瞳の少女……。その瞳のような空が広がり、そこに現れた鳥の群れ……。

――見て! ギル、鳥がいっぱい……

幸せ……。その象徴である青い鳥……。何故、それがよりによって鳥の形をしているのか、彼には納得がいかなかった。

――ねえ、ギル、絵本を読んで

ページを破り捨てる度に、何かが彼の心を傷付けた。

――何故そんなことをするの? 幸せを遠ざけないで。あなたに幸せを運んで来てくれるものを拒絶しないで……

そう教えてくれたのはルイーゼだった。が、そのルイーゼも今はなく、その娘であるエスタレーゼも逝ってしまった。そのエスタレーゼは、ルビーのためによく絵本の読み聞かせをしていた。文字の認識ができない彼に耳から情報を与えることで何とか学習させられないかと模索していた。

――ねえ、ギル、絵本を読んで。これの続きが知りたいの。エレーゼは明日まで帰って来ないんだもの

それがきっかけだった。確かに、彼はすぐに物語を覚えて暗唱した。が、大抵は他の何かの話とミックスされ、彼のオリジナルの物語へと移行してしまうのだが……。それでも、その方法で多くの語彙と外国語を覚えた。言語学の見地からもそれは興味深く、ギルフォートの本棚には絵本の蔵書が増えて行った。が、それでも、そこに青い鳥の本はない。

――ギルは鳥さん嫌いなの?

悲しそうな瞳でルビーが訊いた。
「鳥は嫌いじゃない。ただ……」
そこに象徴されているものが嫌だった。

――僕が悪い子だから? 足し算ができないから? 失敗したから? それで僕を殺しに来たの?

「違う。おまえを責めているんじゃない……」
ウサギの下に金貨が見えた。

――これはね、アルにもらったんだよ。貴重な物だからおまえにやるって……。持っていればきっといいことがあるって……。本当にあったね。この金貨のおかげで僕は命を救われたんだもの

「なのに、何故その大事な金貨を置いて行った?」

――この指輪は外さないんだ。エレーゼのことを忘れないように……。僕って忘れっぽいからずっといつまでも覚えていられるように……

何処までも純粋な瞳……。その瞳の底を覗き込む。が、そこに狂気の片鱗はなかった。

――今度こそ亡くすなよ。大切な弟を……
空を愛し、そこで散った男……。
――もしも、おれが奴を手に入れたなら、花畑で遊ばせておくさ
奔放で傲慢な画家。
――弟と同じ名前だったのさ。ルートビッヒと……それだけのことさ
複雑な運命の歯車に組み込まれて行った多くの人々。

ダーク ピアニスト……。

誰もが彼に魅かれて行った。まるで、暗い深海を泳ぐ魚達が漁火の光に集まって来るように……。ルビー ラズレインという一つの強烈な個性に魅かれ、大勢の人間が引き寄せられて行く。そんな気がした。それらの取り巻きが彼を守り、その才能を育てて来た。そして、それはこれからも続くのかと思われた。が……。暗い虚空へと続く闇の扉は開いたまま……。狂ったような稲妻の残像がいつまでも閃いていた。

――エレーゼが好きだった?

ルビーが訊いた。

――それじゃあ、彼女が死んだ時、ギルも泣いた?

車にはジェラードも乗っていた。彼は黙って運転を続けた。

――誰も彼女のために泣いてくれないんだ。だから、僕の代わりにウサギさんが泣いたの。代わりにウサギが……

そのウサギは横たわったまま、じっと天を仰いでいる。その黒い瞳に射した光は確かに少し滲んで、涙ぐんでいるように見えた。

――だから、もう無理をしなくてもいいんだよ

「……そうかもしれないな」
男は自嘲の笑みを浮かべた。
「本当に解き放つ必要があったのは、ルビーではなく、おれ自身の心の方だったのかもしれない……」
だが、どうすればそこに辿り着けるのか、男にはわからなかった。自分にとって一番大切なものを失ってしまった今となっては、もはやその意味すらなくなってしまったのではないかと……。

――アインツ ツバイ ドライ……

現実から目を逸らす訳にはいかない。

――ご褒美をちょうだい
――何のための?
――今日は100まで数えられたんだ。だから、その記念日に

外は静かだった。サイレンの音は聞こえない。雷の音も鳴りやんだ。

――賭けをしようよ。もしも、ここから落ちて……

「有り得ない……」
男は下を見なかった。

――本当は何もかも知って……

(知っていたのかもしれない……)
ミヒャエルもルビーも彼の手が操るには大き過ぎる存在だったのかもしれない。漁火の灯はもう見えない。魚達はまた、暗い深海へと潜って行ってしまった。そして、地上を照らす灯も消えて、死者達が眠る地下の世界へと還って行く……。


 ラウンジではまだ、人々が社交を楽しんでいた。華やかな照明の下で旅行者達が様々な言語で談笑している。ギルフォートはそんな人々の間を抜けて外に通じる扉を目指した。夜の割には賑やかだった。が、外で起きた惨劇のことを話題にしている者はいない。男は怪訝に思いながらも歩を進めた。不意に女達の歓声が聞こえた。そして、誰かがピアノを弾き始める。まさかと思いながらそちらに足を向けた。美しいそのメロディーはメンデルスゾーン。彼と弟が好きだった曲、「歌の翼に」だ。取り巻いている女達の隙間から演奏者が見えた。

黒い服に黒髪の……。それはルビーだった。
演奏が終わると彼はこちらを向いて微笑んだ。そして、言った。
「あなたの勝ちだね」
それから、ルビーは人形のようにぎこちなく椅子から立ち上がると男に近づいて言った。
「どうしたの? 顔色が真っ青だよ。何処か具合でも悪いの? それとも……」
驚愕する男。それが本当にルビー本人なのか確かめるようにじっと目の前に立った人間を見つめる。

「僕が怖い?」
あの高さから落ちて何ともないのだとしたら、確かに普通ではない。
「死ねなかったんだ。だから、賭けはあなたの勝ちだよ」
男の背後ではシャンデリアの金色の光が輝いている。
「だから、ね。僕は決めたんだ」
その瞳に灯る漁火の幻想……。
「僕はあなたに付いて行く」
そうして彼はくすくすと笑った。
「たとえ、あなたがどんなに嫌がったとしても、僕はずっとあなたに付いて行く」
そして、彼はポケットからビー玉を出すと男と自分の間に掲げた。反射する光。そして、逆さまに映り込む顔。閉じ込められたまま強張り、崩れていく胡蝶の壁……。
「付いて行くよ。だって、僕はあなたのお人形だから……」

Fin.

Thanks.